僧正の積木唄ー The Bishop Murder Case, Again

叢書HONKAKU mystery masters
出版社文藝春秋社
発行日2002/08/30
装幀大嶽恵一、京極夏彦 with Fisco

内容紹介

東西ミステリーの融合と歴史の重み

「僧正殺人事件は解決していなかった」—この一文から始まる山田正紀の「僧正の積木唄」は、ミステリーファンの心を鷲掴みにする衝撃的な設定を持つ作品です。S・S・ヴァン・ダインの古典的名作『僧正殺人事件』と横溝正史の金田一耕助シリーズを見事に融合させた野心的なパスティーシュは、単なるオマージュを超えた独自の世界観と深い歴史的洞察を兼ね備えています。2002年に文藝春秋社から「HONKAKU mystery masters」シリーズとして初版が刊行され、その後2005年には文春文庫としても出版されたこの作品は、多くのミステリーファンから高い評価を受けています。

驚愕の前提と時代設定

本作の最も衝撃的な設定は、名探偵ファイロ・ヴァンスによって解決されたはずの『僧正殺人事件』が実は真犯人を取り逃がしていたという点にあります。「ファイロ・ヴァンスは真犯人の奸計の前に敗北し、連続殺人は続けられた」という設定は、古典ミステリーの常識を覆す大胆な発想といえるでしょう。

物語は1930年代後半、第二次世界大戦へと向かう緊迫した時代のアメリカを舞台としています。この時代選択は偶然ではありません。横溝正史の設定によれば、金田一耕助はかつてアメリカに滞在していた時期があり、この空白期を巧みに利用することで、二つの名探偵の世界を自然に結びつけることに成功しています。全米に反日感情が高まり、日系人が差別される過酷な状況という歴史的背景は、単なる本格ミステリーを超えた重層的な物語を生み出しています。

物語の概要

『僧正殺人事件』から数年後、かつての事件現場であるディラード邸を久々に訪れたノーベル賞級の天才数学者アーネッソン教授が爆殺されるという衝撃的な事件が発生します。現場には奇妙にもアインシュタインの数式が残され、さらに郵便受けにはかつての事件と同じように、マザーグースの「積木唄」と「僧正」の署名を記した紙片が投函されていました。

排日運動が激化する時代背景の中、捜査当局は被害者の給仕人として働いていた日系人を容疑者として逮捕します。日系人コミュニティを窮地から救うため、久保銀造は当時アメリカを放浪していた金田一耕助を事件に引き込みます。阿片中毒から立ち直りつつあった金田一は、独自の推理力で新たな事件に挑むと同時に、『僧正殺人事件』の真相も明らかにしていくのです。

多層的な魅力

1. 本格ミステリーの継承と革新

本作の最大の魅力は、アメリカ黄金期本格ミステリーを代表するS・S・ヴァン・ダインと日本推理小説界の巨匠・横溝正史という東西の名匠を融合させた壮大な構想にあります。物語は全4部構成になっており、それぞれが別のミステリー作品へのオマージュとなっています:

  • 第一部「僧正殺人事件2」:ヴァン・ダインの『僧正殺人事件』の続編
  • 第二部「日本棺の秘密」:エラリー・クイーン『ギリシャ棺の秘密』をモチーフ
  • 第三部「悪魔の積木唄」:横溝正史『悪魔の手鞠唄』をモチーフ
  • 第四部「Jの悲劇」:エラリー・クイーン『Xの悲劇』『Yの悲劇』をモチーフ

この構成自体が知的な遊び心に溢れ、ミステリー愛好家に多くの発見と喜びをもたらします。

2. 歴史的背景の緻密な描写

本作は単なる探偵小説の枠を超え、1930年代末期のアメリカにおける排日運動や社会情勢を生々しく描いています。「黄禍論」に端を発する日系人差別、強制収容所への不安、そして時代の空気に漂う戦争の予感。これらの歴史的背景が物語と有機的に結びつき、一級の歴史小説としての側面も持ち合わせています。

3. 金田一耕助の知られざる過去

横溝正史作品では明確に描かれることのなかった金田一耕助のアメリカ時代と麻薬中毒の経験が、本作では重要な要素として描かれています。阿片窟での描写やダシール・ハメットとの邂逅は、ミステリーファンには堪らない演出です。

4. 文化的引用の豊かな織物

ヘミングウェイ、カリガリ博士、シュールレアリズム、フロイト理論など、1930年代アメリカ文化が随所に引用されています。これらは単なる小ネタではなく、「間テクスト的世界」を構築する重要な構成要素として機能しています。

5. 「山田正紀テイスト」の独自性

オマージュにとどまらず、重厚で哲学的なテーマ性と緻密な構成は「山田正紀らしさ」に溢れています。探偵小説でありながら、思想的、文学的な深みを持つ作品です。

ラストの衝撃と作品の意義

ばらばらに思えた伏線が最後に一気に収束し、読者に鮮やかなカタルシスを与える結末は、まさに圧巻です。名作への批評的アプローチでありながら、新たなミステリーとして確かな完成度を誇ります。

読む際の注意点

『僧正殺人事件』未読の場合、ネタバレを含むため、先に原作を読むことが強く推奨されます。また、ファイロ・ヴァンスの描写に対してはファンによって評価が分かれる可能性もあります。

結論

「僧正の積木唄」は、古典的本格ミステリーへの敬意と批評、そして独自の文学性が見事に融合した一冊です。東西の名探偵が交錯し、歴史と謎が交わるこの作品は、すべてのミステリーファンに読まれるべき作品といえるでしょう。

引用元

文庫・再刊情報

叢書文春文庫
出版社文藝春秋社
発行日2005/11/10
装幀 Lock G.Holme + WONDER WORKZ。