螺旋[スパイラル]

叢書幻冬舎ノベルス
出版社幻冬舎
発行日1997/08/15
装幀田渕裕一、高橋雅之

内容紹介

史上最長の密室トリックと幻想ミステリの魅力

導入:『螺旋[スパイラル]』とは何か?

山田正紀の「螺旋[スパイラル]」は、1997年に幻冬舎ノベルスから刊行され、2000年に幻冬舎文庫として再版された長編ミステリー小説です。房総半島を舞台に、建設中の地下水路「第二房総導水路」を巡る贈賄疑惑や環境保護団体の反対運動が絡み合い、不可解な殺人事件が連続して発生します。特に、全長6.5キロの地下水路という「密室」から死体が消失するトリックは、読者を驚愕させ、物語に緊張感を与えています。さらに、旧約聖書に登場するモーセやエゼキエル書のイメージを彷彿とさせる現象が物語に神秘性を加え、現実と幻想が交錯する独特の雰囲気を醸し出しています。

本記事では、この作品のあらすじ、テーマ、登場人物、ミステリー要素、トリックの魅力、そして作者の意図を詳細に解説します。山田正紀のファンだけでなく、ミステリーや幻想文学に興味のある読者にも楽しんでいただける内容を目指しました。


あらすじ:房総半島で巻き起こる不可思議な事件

物語の舞台は千葉県の房総半島。ここでは、第二房総導水路という地下水路の建設が進められていますが、環境保護団体による激しい反対運動や、事業受注に関わる贈賄疑惑が浮上し、状況は混迷を極めています。主人公である新聞記者・垂水は、疑惑の中心人物である会社社長・都築を追跡取材中です。そんな中、環境調査のために訪れていた学者・瀬下が下水処理場のタンク内で怪死を遂げ、さらには都築までもが何者かに殺害されます。

都築の遺体は第二房総導水路に流されますが、全長6.5キロに及ぶ「密室」とも呼べる水路内で忽然と姿を消してしまいます。出口に流れ着くはずのない遺体が、なぜか海岸で発見され、しかも肋骨が一本欠けているという異様な状態でした。事件の背後には、牛背(モーセ)と名乗る謎の人物が浮かび上がり、旧約聖書と符合する不可思議な出来事が次々と発生。垂水は、風景心理学を提唱する探偵・風水林太郎とともに、この複雑怪奇な事件の真相に迫っていきます。


テーマ:善と悪の境界、そして人間の本質

「螺旋[スパイラル]」の核となるテーマは、善と悪の境界線、そして人間の内面に潜む闇です。物語は、贈賄疑惑や環境破壊といった現実的な社会問題を背景に展開しますが、それらが登場人物たちの欲望や葛藤と結びつき、より深い問いを投げかけます。例えば、都築は利益を追求する企業人としての顔を持ちながら、事件の被害者としても描かれ、彼の行動が純粋な「悪」と呼べるのかは曖昧です。同様に、環境保護を訴える団体にも、過激な手段を取る者たちが存在し、善意が必ずしも正義に直結しないことが示唆されます。

さらに、旧約聖書のモチーフが物語に織り込まれることで、善悪の定義が宗教的・哲学的な次元に引き上げられます。牛背(モーセ)が登場し、聖書の「出エジプト記」や「エゼキエル書」を思わせる現象が描かれる一方で、それらが現実の殺人事件とどう関連するのかが謎として提示されます。山田正紀は、この作品を通じて、「人間は善なのか悪なのか?」という根源的な問いを読者に突きつけ、明確な答えを与えることなく思索を促します。


登場人物:事件を動かす個性豊かな面々

  • 垂水
    大手新聞社の記者で、物語の語り手。贈賄疑惑を追う中で事件に巻き込まれ、真相解明に奔走します。現実的な視点を持つ一方、幻想的な出来事に直面することで内面的な葛藤を抱えます。
  • 都築
    会社社長で、贈賄疑惑の中心人物。殺害され、第二房総導水路に流された後、遺体が消失するという事件のきっかけを作ります。彼の死が物語の謎を深めます。
  • 瀬下
    環境調査のために房総半島を訪れた学者。タンク内で怪死を遂げ、連続殺人の第一の被害者となります。彼の死が、物語に不穏な空気を漂わせます。
  • 牛背(モーセ)
    事件前に現れた謎の人物。旧約聖書のモーセを彷彿とさせる名前と行動から、物語に宗教的な色彩を加えます。その正体と目的が物語の核心に迫ります。
  • 風水林太郎
    風景心理学を提唱する探偵。尊大な態度ながら鋭い洞察力を持ち、事件の謎を解き明かす鍵を握ります。
    彼の推理法は通常の論理的な探偵とは異なり、「土地が持つ歴史や神秘性」 を考慮しながら事件を解決します。
    風水林太郎は山田正紀作品における「呪師霊太郎」や「佐伯神一郎」と並ぶ魅力的な探偵キャラクターとして位置づけられます。「風景心理学」という独自の学問を背景に持つ彼は、神秘的な要素を含む本作の探偵役として適任であり、土地と事件の謎を結びつける視点を提供しています。

これらの人物が織りなす人間ドラマが、ミステリーの展開と幻想的な雰囲気を支えています。


ミステリーの要素:全長6.5キロの密室と聖書の符合

「螺旋[スパイラル]」の最大の魅力は、ミステリー要素のスケール感と独創性にあります。中心となるのは、全長6.5キロの第二房総導水路という「密室」から都築の遺体が消えた謎です。このトリックは、物理的な不可能犯罪として読者を引き込み、物語の緊張感を一気に高めます。遺体が海岸で発見され、肋骨が一本欠けているという異常性は、単なる消失事件以上の意味を持っていることを暗示します。

また、物語には旧約聖書と符合する現象が散りばめられており、ミステリーに幻想的な層を加えています。例えば、牛背(モーセ)の登場は「出エジプト記」のモーセを連想させ、燃える茨や神の声といったイメージが現実の事件とリンクします。さらに、「エゼキエル書」に記述される「空飛ぶ円盤」のような描写も登場し、SF的な要素すら感じさせます。これらの現象がトリックとどう結びつくのかが、物語の大きな見どころです。


トリックの魅力:驚異的なスケールとその解明

全長6.5キロの「密室」から死体が消えたトリックは、「螺旋[スパイラル]」の最大のミステリーであり、山田正紀の独創性が遺憾なく発揮された部分です。このトリックは、島田荘司の作品を彷彿とさせる大がかりな仕掛けを持ち、読者に「どうやって実現したのか?」と考えさせます。物語の終盤で明らかになる真相は、物理的な手法と心理的な盲点を組み合わせたもので、驚きとともに納得感を与えます。

ただし、一部のレビューではトリックに「大きな穴がある」と指摘されています。例えば、黄金の羊毛亭では、「トリックに一つ大きな穴があるのが残念」と述べられています。しかし、同じレビューは「全編を覆う幻想的な現象がそれすらも気にさせないほどの魅力にあふれている」と評価しており、トリックの瑕疵を補って余りある物語の力が強調されています。筆者も、このトリックは完全無欠ではないかもしれないが、作品全体のスケール感と雰囲気が読者を圧倒する点で成功していると感じます。


幻想的な雰囲気:現実と非現実の交錯

「螺旋[スパイラル]」は、現実的な社会問題と幻想的な要素が融合した独特の雰囲気を持つ作品です。房総半島が「神宿る土地」と定義され、土地そのものが物語の謎と深く結びついている点が神秘性を高めています。旧約聖書のモチーフが随所に現れ、例えば牛背(モーセ)が「燃える茨と神の声」を連想させる場面は、読者に聖書の情景を重ね合わせます。

物語良品館資料室では、「リアリティを感じさせる前半の社会派ストーリーと聖書や古事記を引用しつつ展開される後半の狂気じみたロジックのギャップは幻想ミステリーの枠を超えてSF的ですらある」と評されています。このギャップが、読者を現実から非現実へと引き込む力となっています。


作品の社会的・時代的背景

「螺旋[スパイラル]」が執筆された1990年代中頃は、日本社会においていくつかの重要な転換点であった。バブル経済崩壊後の不況、阪神・淡路大震災やオウム真理教による地下鉄サリン事件など、社会に大きな衝撃を与える出来事が相次いだ時期である。特に宗教団体が引き起こした事件は、宗教と社会の関係性について多くの人々に再考を迫るものであった。

本作で描かれる環境問題と大規模公共事業の問題は、この時代の日本社会が直面していた課題を反映している。バブル期に計画された大規模開発事業の是非や環境への影響が問われ始めた時代背景が、作品の前半部分に描かれる社会派的要素に影響を与えていると考えられる。

また、宗教的要素と幻想性を融合させた本作のアプローチは、オウム事件後の「宗教」に対する社会的関心と懐疑の高まりを反映しているとも解釈できる。聖書や神話的世界観を現代社会に接続する試みは、「失われた10年」と呼ばれる時代における精神的拠り所の喪失と新たな意味の探求という社会心理を表現しているという見方もできる。


「螺旋」の文学的意義

タイトルに用いられている「螺旋」という言葉は、本作の構造と主題を象徴する重要な鍵である。螺旋は円環でありながら常に新たな高みへと上昇していく形状であり、同じ場所に戻りながらも別の次元へと移行する運動を示している。

この形状は、本作における事件の構造そのものを表している。表面上は単純な事件に見えながら、解明されるにつれて別の次元の真実へと至る展開は、まさに螺旋を描くように進行する。また、善と悪の二元論を超えて、より高次の倫理的視点へと読者を導く物語の構造も、螺旋的な思考の過程を反映している。


作者の意図:人間の本質と社会への問い

山田正紀は、「螺旋[スパイラル]」を通じて、人間の内面や社会の闇に光を当てようとしたと考えられます。贈賄疑惑や環境保護運動といった現実的な題材を導入することで、現代社会の問題を読者に意識させます。一方で、旧約聖書の引用や幻想的なトリックを通じて、それらが人間の善悪や欲望とどう結びつくのかを掘り下げています。

ミステリの祭典の感想では、「善と悪に対するある種の先入観が、事件そのものの全体像を微妙に歪ませている」と指摘されており、作者が意図的に読者の認識に揺さぶりをかけた可能性が伺えます。山田正紀は、単にミステリーを解くだけでなく、読者に人間の本質や社会の構造について考えさせることを目指したのでしょう。


他のレビューからの視点:多角的な評価

  • 読書メーター
    「社会派ミステリ寄りの物語が、キリスト教や旧約聖書が絡む幻想的な雰囲気へ。宗教的知識がなくても何とかついていける。最後には重厚な本格ミステリとして着地するが、余韻は幻想的」との声。宗教に詳しくなくても楽しめる点が、作品の間口の広さを示しています。
  • Amazonレビュー
    「『妖鳥』に続き、この時期の山田正紀は凄い。とんでもなく質の高いミステリを次々と発表し、神懸りな活躍を見せた」と絶賛。この作品が、山田正紀のキャリアの中でも特に輝かしい時期に生まれたことが分かります。

結論:幻想ミステリーの傑作

「螺旋[スパイラル]」は、山田正紀の幻想ミステリーにおける傑作であり、読者に多層的な体験を提供する作品です。全長6.5キロの「密室」から死体が消えるトリックは、物理的な驚きを与えるとともに、物語全体の幻想的なトーンを支えます。房総半島という「神宿る土地」を舞台に、贈賄疑惑や環境問題といった現実と、旧約聖書に由来する非現実が交錯し、善と悪の境界を問いかける深いテーマが描かれます。

文庫で約700ページに及ぶ大作ながら、読者を最後まで引き込む力を持ち、ミステリー好きだけでなく、文学や哲学に興味のある読者にも訴えかける魅力があります。トリックに多少の瑕疵があっても、それを上回る物語のスケール感と雰囲気が、読後に強い印象を残します。山田正紀の創造力が結実したこの作品を、ぜひ手に取って堪能してください。


参照文例以外の参考文献

これらは、作品の多様な受け止め方を理解する上で役立ちました。

文庫・再刊情報

叢書幻冬舎文庫
出版社幻冬舎
発行日2000/02/25
装幀 藤田新策