恍惚病棟

叢書初版
出版社祥伝社
発行日1992/07/20
装幀中原逹治、梅津佳子

内容紹介

東京郊外のK市にある聖テレサ医大病院の老人病棟を舞台に、幻想とリアリティーが入り混じった骨太のミステリが展開される。それが山田正紀の代表作「恍惚病棟」である。

作品の主人公は、同病棟で心理士のアシスタントをしている平野美穂。そこには、おもちゃの電話が与えられた痴呆患者たちの「テレフォン・クラブ」なるグループがあり、患者たちはその電話を通じて「死者からの電話がかかってくる」と主張していた。そんな中、ある患者が病棟から姿を消し、近所の駐車場で心筋梗塞で死亡しているのが見つかる。

このミステリアスな出来事を皮切りに、次々と「テレフォン・クラブ」のメンバーが不可解な事故に巻き込まれていく。作中には患者たちの幻覚から発した「死者からの電話」についての独白が頻繁に挿入され、現実と幻想の境界があいまいになっていく。事態の異常さに疑問を抱いた美穂は、事故の裏に何らかの犯罪の糸口があるのではないかと考えるのだった。

物語は、老人病棟の閉鎖された空間における出来事に着目しながら、次第に幻想的な雰囲気を増していく。痴呆患者による幻覚や妄想といった精神的な側面が、ミステリの重要な素材として機能している。同時に、リアルな事件の核心へと徐々に近づいていく展開もなされており、リアリティとの絶妙なバランスが生み出されている。

中盤では、病棟で起きた不可解な出来事の背後に潜む陰謀の一端が明らかになり、さらなる緊迫感が盛り上がる。特に患者を心中未遂から救った施設長の秘められた狂気描写は見事で、作品全体のミステリアスな雰囲気を更に高めている。

終盤は痴呆患者たちの奇妙な言動や事件の謎が次々と解き明かされ、めまぐるしい展開となる。作者は幻想と現実の狭間をたゆたう独自の世界観を貫徹させながら、ミステリ小説として見事なオチをつけている。

本作の最大の魅力は、痴呆患者の幻覚や妄想を積極的に活用し、そこから幻想的で不思議な世界が生み出されている点だろう。作者は「死者からの電話」といった設定を武器に、絶えず現実と幻想の境界線を意図的にあいまいにしていく。そのため読者は、物語が展開するにつれ、現実とは何か、そして幻想とは何かを問い直すようになっていく。

同時に痴呆患者を主要な登場人物に起用したことで、作品は一種の"新・社会派"的な側面も持つことになった。つまり、高齢社会が到来した現代においてタブー視されがちな老人の痴呆という問題に、ミステリの形で正面から取り組んだ意義は大きい。
ただし作者ご本人は、『「社会派」を目指して書かれた作品ではないし、元々ミステリーに「社会派」というジャンルが存在したとは思っていない』、とはっきり否定されています(ハルキ文庫版あとがきより)。

作者独自のアプローチはさらに踏み込んでおり、作中で患者たちに寄り添いながらも、時にユーモアを交えることで一定の距離を保っている。これにより作品には諧謔さが生まれ、痴呆に対する偏見をなくそうとする強い意図を感じさせる。

また、作者の繊細な心理描写もミステリの面白さを増幅させている。美穂や施設長、看護師といった登場人物たちの内面を巧みに描き出すことで、事件への真相追及に緊迫感が生まれ、人間ドラマとしての奥行きが出ている。

一方で、中盤から終盤にかけての出来事の波乱が過剰に感じられるところもあり、ラストに向けての盛り上がりに一部無理があると指摘できるかもしれない。また解決編で筋立てを意識しすぎたために、やや冗長に陥っているように思われる箇所もある。しかしそれでも全体として、作品の持つ魅力にかげりは無い。

「恍惚病棟」は、山田正紀らしい独自の幻想世界を描き出しながらも、ミステリとしての緊迫感とエンターテインメント性を両立させた意欲作である。作家の持ち味を余すところなく発揮した、見事な出来栄えといえるだろう。幻想と現実の間を漂う、ミステリ小説の新境地を切り拓いた重要な一作品といえるのではないか。

文庫・再刊情報

叢書ノン・ポシェット
出版社祥伝社
発行日1996/12/20
装幀 中原逹治
叢書ハルキ文庫
出版社角川春樹事務所
発行日1999/04/18
装幀 三浦 均、芦澤泰偉
叢書祥伝社文庫
出版社祥伝社
発行日2020/07/20
装幀 國枝達也、Tim chong/EyeEm