ヨハネの剣

叢書初版
出版社講談社
発行日1980/01/20
装幀井上正篤、高橋常政

収録作品

    • ヨハネの剣
    • マッカーサーを射った男
    • 雪のなかのふたり
    • 伊豆の捕虜
    • 闇より来たりて
    • アナクロニズム
    • ブロンコ
    • コルクの部屋からなぜ逃げる
    • 優しい町

内容紹介

はじめに - 多彩な世界を描く作家

この短編集を読み進めると、山田正紀の作品世界の特徴が浮かび上がってくる。それは、日常と非日常、現実と幻想の境界線を自由に行き来する能力だ。彼の作品では、一見すると平凡な日常の中に、突如として非日常的な要素が侵入してくる。あるいは、荒唐無稽な設定の中に、きわめて人間的な感情や葛藤が描かれる。

このようなアプローチは、読者を驚かせ、考えさせる。普段は気づかない日常の不思議さや、荒唐無稽に見える設定の中に潜む真実を、山田正紀は見事に描き出してくれるのだ。

各作品の紹介

「ヨハネの剣」 - 神の子を名乗る男の物語

まず、表題作の「ヨハネの剣」から見ていこう。この作品は、過激派グループ"世界最前衛赤軍"の創立者の一人が、組織の金を奪って逃走したという設定から始まる。

主人公の"私"は、この逃亡者を追跡する任務を負っている。やがて、情熱と闘牛の国スペインで、ようやく彼を発見する。そこで彼は、自らを"天草四郎の再来"、つまり"神の子"と信じていたことを明かす。しかし今、彼はその信念を失っていた。「ぼくは"神の子"ではなかった」—そう告げる彼の姿には、野望と挫折が見事に描き出されている。

この作品の魅力は、幻想と現実の絶妙なバランスにある。"神の子"を名乗る男という設定は、一見すると荒唐無稽だ。しかし、自らの信念に生きようとした彼の姿は、どこか人間的で共感を呼ぶ。特に印象的なのは、闘牛の場面だ。スペインの熱気と血の匂いが漂う闘牛場は、男の内なる闘いを象徴しているかのようだ。

山田正紀は、「怪物の消えた海」(『神獣聖戦I 幻想の誕生』収録)でも闘牛を題材にしている。彼の描く闘牛は、単なるスペクタクルを超えて、人間の内面を映し出す鏡のような役割を果たす。「ヨハネの剣」もその例外ではなく、幻想さえ感じさせる闘牛の場面は、まさに圧巻と言えるだろう。

「マッカーサーを射った男」 - 歴史の裏に潜む物語

次は「マッカーサーを射った男」。この作品は、歴史の裏側に潜む、もう一つの物語を描いている。

主人公は、テレビ局のディレクター。ある日、奇妙なインタビューのテープが届く。そこに登場する男は、終戦直後に厚木基地に降り立ったマッカーサーを銃撃したと主張する。さらに、肩を押さえてのけぞるマッカーサーの写真まで添えられていた。

史実では、マッカーサーは颯爽と厚木基地に降り立ったはずだ。しかし、この写真とインタビューは、私たちの知る歴史に疑問を投げかける。真相は何なのか。ディレクターは調査を開始するが、そこから明らかになる真実は、彼の予想を超えるものだった。

この作品の面白さは、歴史の裏側を覗き見る感覚にある。私たちが教科書や写真で見る歴史は、本当に正しいのだろうか。あるいは、都合の良い部分だけが切り取られ、美化されてはいないだろうか。山田正紀は、そんな問いを投げかけてくる。

さらに、真相が明かされた後の皮肉な結末も印象的だ。それは、歴史の表と裏、そして個人の記憶と集団の記憶の間にある、埋めがたい溝を浮き彫りにする。この作品は、私たちに「歴史」を見直すきっかけを与えてくれる。

「雪のなかのふたり」 - 日常に潜む不条理

「雪のなかのふたり」は、一風変わった日常を描いた作品だ。主人公は、窓際族のサラリーマン・佐藤。ある雪の日、スナックで飲んでいた彼の前に、中年の浮浪者が現れる。

バーテンは浮浪者を追い出そうとするが、佐藤は気まぐれを起こして浮浪者に酒をおごる。しかし、素直でない浮浪者に腹を立て、二杯目をおごらずに追い出してしまう。スナックを出た佐藤だが、外で浮浪者が彼を待っていた...。

"奇妙な味"の傑作と呼ばれている作品です。確かに、この物語には何か不条理なものが漂っている。何の変哲もない日常の中で、ふと起こした気まぐれが、思いもよらない事態を引き起こす。それは、私たちの日常に潜む不条理さを象徴しているかのようだ。

しかし、不思議なのは、この非日常がどこか楽しそうに感じられることだ。佐藤と浮浪者の奇妙な絡み合いは、日常の退屈さを打ち破る、小さな冒険のようにも見える。山田正紀は、日常の中に潜む不条理を、ユーモアを交えて描き出している。

「伊豆の捕虜(とりこ)」 - 心理戦の果ての結末

「伊豆の捕虜(とりこ)」は、心理戦を描いた作品だ。主人公の"俺"は、金を持て余して退屈しきった石動とのゲームの中にいる。俺は石動の金を奪い、逃走経路の限られた伊豆から脱出しようとする。

一見すると、この作品は『贋作ゲーム』のような、頭脳戦を描いた物語に見える。実際、"俺"は知恵を絞って石動の罠をかいくぐり、脱出を図る。しかし、予想外の結末が待っている。山田正紀は、読者の予想を裏切る名手だ。

特に印象的なのは、ラストの"俺"の姿だ。そこには、単なる勝ち負けを超えた、もう一つの物語が隠されている。それは、人間の心理の奥底にある、ある種の感情を巧みに描き出している。この結末は、読後も長く心に残るだろう。

「闇より来たりて」 - 人類の闇を見つめる

「闇より来たりて」は、未来社会を舞台にしたSF作品だ。人類の破壊衝動が矯正され、"軍隊"さえもが死語となった"黄金時代"。この世界で、主人公の"俺"は、なぜか戦闘訓練を受けていた。

ある日、"俺"を拉致した組織、”ビューティ"のメンバーが、驚くべき秘密を語る。そこで明らかになるのは、人類の"闇"の正体だ。一見して平和に見える"黄金時代"の裏に潜むものとは何か。

この作品は、人間の本質を鋭く問うている。人類は本当に変われるのか、それとも変わらないのか。私たちの内なる"闇"は、本当に消し去ることができるのか。山田正紀は、これらの問いに真正面から取り組む。

特に興味深いのは、"黄金時代"の描写だ。そこには、どこかうさんくささが見え隠れする。表面上の平和の中に、何か違和感が漂っている。この違和感こそ、人間の"闇"の表れなのかもしれない。

「アナクロニズム」 - 過去のSFと現実のギャップ

「アナクロニズム」は、過去のSFへのオマージュ作品だ。1969年、軽気球開発の第一人者・上杉久雄が、人類初の月世界探検に出発する。ロンドン郊外から巨大なカタパルトで発射された月世界旅行船 "アポロ"は、ついに月に到着するが...。

この作品は、ジュール・ヴェルヌの『月世界へ行く』を下敷きにしている。19世紀のSFが描いた月世界探検を、20世紀後半の視点から再現しているのだ。そこには、古き良き時代のSFと現実とのギャップが浮き彫りになる。

題名の「アナクロニズム」(時代錯誤)は、まさにこの作品を言い当てている。巨大カタパルトで月に行くという設定は、今の私たちから見れば荒唐無稽だ。しかし、その荒唐無稽さの中に、何ともいえないノスタルジーが感じられる。

山田正紀は、過去のSFが持つ純真さや大胆さを、現代の目線で再評価している。それは、技術的な正確さよりも、人間の夢や冒険心を大切にしたSFへの、温かいまなざしだと言えるだろう。

「ブロンコ」 - 未来社会の影の立役者

「ブロンコ」は、暗い未来を描いたSF作品だ。世界経済が破綻し、発展途上国が窮乏にあえぐ未来が舞台となる。主人公の"私"、ブロンコは、この世界を支える伝説的な人物だ。

今回の任務は、内陸アジアの砂漠で起きたトラブルを解決すること。そして、さまよう"水"を捕らえるという、一風変わった仕事に挑む。この"水"という設定に、山田正紀のアイデアの豊かさが表れている。

しかし、この作品の真髄は、ブロンコの内面描写にある。彼は世界機構を支える伝説の人物として、その名を轟かせている。しかし、その実態は疲労感に満ちている。伝説であり続けることを余儀なくされた彼の心情は、どこか切なさを感じさせる。

ブロンコは、未来社会の影の立役者だ。表舞台には立たないが、社会の歯車を回し続ける存在。しかし、その役割を担う彼自身は、疲弊している。この作品は、未来社会の裏側で苦悩する個人の姿を、繊細に描き出している。

「コルクの部屋からなぜ逃げる」 - 文学と現実の交差点

「コルクの部屋からなぜ逃げる」は、マルセル・プルースト『失われた時を求めて』を下敷きにした作品だ。主人公は、プルースト本人。彼は、生涯を小説を書くことに捧げようと決意している。

ある日、いつものようにママが入れてくれた紅茶にマドレーヌを浸して口に入れると、唐突に幻想が彼を襲う。砂漠に立ち、奇妙な乗り物に乗り込もうとする一人の男—その幻想から目覚めたプルーストの周囲で、奇妙な出来事が頻発し始める。

この作品は、文学と現実が交差する瞬間を描いている。プルーストの代表作『失われた時を求めて』では、マドレーヌを口にした時の感覚から、過去の記憶が蘇る。山田正紀は、そのモチーフを巧みに利用しつつ、さらに一歩進めている。 プルーストが見た幻想は、単なる過去の記憶ではない。それは、まだ書かれていない物語の断片のようだ。そして、その断片が現実世界に侵入してくる。プルーストの周囲で起こる奇妙な出来事は、彼の想像力が現実を変容させているかのようだ。

山田正紀は、文学者の内面世界を見事に描き出している。作家にとって、創作中の物語は単なる空想ではない。それは、現実と同じくらいリアルなものだ。時に、その物語世界に自分自身が引き込まれることさえある。「コルクの部屋からなぜ逃げる」は、そんな作家の精神状態を、幻想的な形で表現している。

なお、この作品は元ネタの『失われた時を求めて』を読んでいないと、分かりにくい部分もある。しかし、山田正紀の巧みな描写のおかげで、元ネタを知らなくても十分に楽しめる。むしろ、この作品をきっかけに、プルーストの原作に興味を持つ読者もいるだろう。

「優しい町」 - 変化に取り残された者の悲哀

最後は「優しい町」。この作品は、過激派のメンバーである"俺"が、湘南のA-町を訪れるところから始まる。この町には、"俺"のアジトがあった。しかし、そこに送り込んだ三人の同志からの連絡が途絶えてしまっている。

"俺"がA-町に到着すると、そこはどこかおかしな町だった。奇妙に穏やかで、優しい人々ばかりなのだ。さらに驚くべきことに、筋金入りの闘士だったはずの同志たちも、すっかり変わり果てていた。

この作品は、「闇より来たりて」と似たテーマを扱っている。しかし、焦点が異なる。「闇より来たりて」が人間の本質的な"闇"を問うのに対し、「優しい町」は、変化に対応できない人間の苛立ちと悲哀を描く。

"俺"にとって、A-町の変化は理解不能だ。かつての戦友が、なぜ闘争心を失ったのか。なぜ町の人々は、異様なほど穏やかなのか。しかし、実は異様なのは、変化に取り残された"俺"の方なのかもしれない。

山田正紀は、時代の変化に直面した個人の姿を、見事に描き出している。激動の時代を生きた人間が、突然の平和を受け入れられない。その苛立ちと悲哀が、「優しい町」の中心テーマだ。

また、この作品には山田正紀らしさが強く出ている。日常と非日常の境界線を歩く彼の特徴が、ここでは社会変化という形で表れている。一見すると非日常的な"優しい町"が、実は新しい日常なのだ。その転換点に立つ"俺"の姿は、山田正紀文学の縮図とも言えるだろう。

おわりに - 境界線を歩く文学者

「ヨハネの剣」に収録された9編の短編を見てきた。改めて感じるのは、山田正紀の創作活動の多様性だ。SFから犯罪小説、"奇妙な味"の日常小説まで、ジャンルを超えて自在に筆を走らせる。

しかし、その多様性の中にも、一貫したテーマがある。それは、境界線を歩くということだ。日常と非日常の境界線、現実と幻想の境界線、あるいは社会の変化における価値観の境界線。山田正紀は、これらの境界線上を自由自在に行き来する。

「ヨハネの剣」では、"神の子"を名乗る男の幻想と現実が交錯する。「マッカーサーを射った男」では、公式の歴史と個人の記憶が境を接する。「雪のなかのふたり」は、日常の中に非日常が侵入する瞬間を捉えた。

さらに「アナクロニズム」では、過去のSFの想像力と現代の技術的現実の境界線を、温かいまなざしで見つめる。「コルクの部屋からなぜ逃げる」は、文学と現実が交差する地点を描いた。「優しい町」では、社会変化の中で、古い価値観と新しい価値観が境を接する。

山田正紀は、これらの境界線上に立って、双方の世界を見渡す。そうすることで、私たちが普段は見落としがちな視点を提供してくれる。日常の中に潜む不思議、荒唐無稽な設定の中に隠された真実。それらは、境界線上に立って初めて見えてくるものなのだ。

「ヨハネの剣」は、そんな山田正紀の文学的冒険の記録だ。この作品集を読むことで、私たちは彼の目を通して、日常と非日常、現実と幻想の境界線を歩くことができる。そこには、新鮮な発見と深い洞察が待っている。ぜひ、山田正紀と一緒に、想像力の翼を広げる旅に出かけてみてはいかがだろうか。

文庫・再刊情報

叢書講談社文庫
出版社講談社
発行日1987/02/15
装幀 角田純男